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高山村文化財について

高山村指定文化財

一茶ゆかりの里離れ家

建物の特徴は、第1に規模が小さい割に立ちの高い建物である。
棟を「せがい造り」にしているので、屋根も大きく堂々と見える。
第2番目は間取りであり、一般の民家と異なり土間や茶の間が狭く座敷に重点が置かれている。
第3番目は奇抜な床の間の構えである。床の間に非対称の丸窓を設け、背面からみると部屋の丸窓・高窓との組み合わせが絶妙である。
この建物は、18世紀ないし19世紀当初の建築物であり小林一茶が逗留したという史跡的意味も加え、書院座敷をもった隠居部屋にふさわしい建物であり、当時の信州における数奇屋風の造りとしても優れた名建築である。
平成8年現在の地(一茶ゆかりの里)へ移築復元。

高杜神社本殿及び本社

高杜神社本殿は、軒破風付きの建物で上屋の中に建つ。建築年代は棟札から嘉永元年とわかる。大工棟梁は当初の亀原和太四郎義重。
彫刻をみると、向拝木葉鼻は振向きの龍、向拝紅梁の中央に波、亀、軒唐破風内部に麒麟、兎の毛通しに鳳凰、脇障子は松・鶴、牡丹・唐獅子となっている。社殿の特徴は、正面の扉を両開きの扉にしないで、4枚一連の両折り戸としていることや向拝木鼻を振向きの龍としている点も独創的である。
本社は入母屋造り、浅瓦葺きの建物で1間の向拝を付けている。妻入りなので本殿上屋部分とは棟を直行させて橦木造りとなっている。天明2年の再建とみられ、時代の特色をよく示している建造物といえる。いずれも建築物として医匠的に優秀であり、文化財としての価値が高い。

子安神社本殿及び本社

子安神社本殿は、全体が黒漆・朱漆塗りされている。建物は18世紀前期の建物と推定され、緑長押の上に腰長押を用いている点に特徴がある。村内における多くの社殿の中で古い時代の建造物に属している。
本社は、明治初期大工棟梁長谷川八百蔵の作によるもので、龍や唐獅子、力神など彫刻の見事さに目を奪われる。幕末・明治初期の特色をよく示した社殿である。

駒場の郷蔵

郷蔵は江戸時代のもので、農民が納めた年貢米を一時貯蔵したり、飢餓のための 貯蔵庫として村に建てられた倉庫である。
駒場の郷蔵は、高山村に残る唯一の郷蔵であり、集落の要として存在していた郷蔵 遺構として当時の面影をとどめており、貴重で歴史的価値が高い。平成7年屋根の葺き替えと壁の修理を行なった。

諏訪神社(春宮)本殿

諏訪神社春宮の本殿は、文政12年大工棟梁越後国三島郡小木村の安達重蔵政方によるもので、当時の標準的な様式で作られているが桁に垂木尻を見せておりこの点に越後系の流儀が伺える。木製の亀腹状の土台を用いている点が特徴である。

諏訪神社(秋宮)本殿及び本社

諏訪神社秋宮の本殿は、絵様などに胡粉、緑青、弁柄などの色彩が残っている。向拝の木鼻は象鼻であるが、江戸後期のような定型化に至る以前の独創的な形のものである。
本社は、本殿の上屋が切妻、拝殿に相当する部分が入母屋・妻入りの形をとるこの撞木造りの建物。棟札は確認できないが、安政元年亀原和太四郎嘉博によって建てられたという。近隣の牛神社本社の木鼻と同一であり建築年代も近いことから、亀原和太四郎嘉博の作とみてよいと思われる。

山田温泉の薬師堂

薬師堂は、文政11年の上棟で間口15尺奥行き15尺の建物。奥に仏壇を3尺張出している。形式的には方三間堂のように作られた入母屋造り、銅板葺の建物で正面に一間の向拝を付けている。軒は二間で扇垂木とする。
彫刻は向拝の木鼻が振向きの唐獅子、紅梁上に龍、紅梁の絵様に波・亀、手狭みに菊の籠彫りとする。また、隅柱の木鼻は、松・鶴の籠彫りとするなど技巧的な彫刻を多くつけている。
内部には結界が設けられているが、5月7〜8日、10月7〜8日のお祭りの祭には結界をはずして、内部が一体の空間となる。

湯倉洞窟遺跡

昭和46年から14回の発掘調査が行なわれ、出土遺物には縄文草創期から近現代に至るまで数多くの良好な資料が続出している。

中でも推定7,000年前の埋葬人骨がほぼ完全な姿で発掘されるなど全国的に関心を集めた洞窟であり、出土遺物の質・量ともに先人の歴史を学ぶ上で特筆すべき洞窟といえる。

教育委員会では、調査報告をまとめた冊子を定価 5,000円にて販売しております。

湯倉洞窟遺跡出土品

発掘物は、縄文時代草創期(12,000年前〜9,000年前)から現代に至るまで、各時代層に出土し、各時代の山住生活を知る貴重なものであり、特に全国的にも珍しい縄文早期のほぼ完璧な人骨も出土した。石器や土器など出土物は他地域にも出土しているものが多いが、高地の洞窟のなかで各時代層に満遍なく出土している例は全国的にも極めて珍しく、洞窟利用を知る貴重な資料である。

水中の枝垂れ桜

村内にしだれ桜は数多いが、樹齢・大きさ・樹形ともに村内屈指で春満開の時期には優美な姿を見せる。
寛保2年(1742年)鹿島神を祀った時に植えたと伝えられるため、推定樹齢250年。
昨今の観光客の増加により踏み荒しなどによる樹勢の衰えが懸念される。貴巨樹として指定にふさわしい銘木といえる。

黒部のエドヒガン

黒部の水田地帯十二宮跡地にあり、エドヒガン桜としては村内第一の古木である。
主幹が2裂し、双方をあわせると周囲6メートルを超える巨樹となる。一方の主枝が平成10年の台風で折れてしまったが、樹齢や樹形は水中のしだれ桜同様村内屈指といってよい。
村内の桜類のなかでもエドヒガンは少なく、この木は近くに同類の自生地がないので古い時代に植えたものと推定される。
昨今の観光客の増加により踏み荒しなどによる樹勢の衰えが懸念される。貴巨樹として指定にふさわしい銘木といえる。

坪井の枝垂れ桜

三郷区の坪井地籍墓地にあり、しだれ桜では樹齢・太さともに村内第一の古木であり巨樹である。墓碑の歴史から推定すると樹齢は400年以上と思われる。
中山地区は付近にしだれ桜の巨木が何本かみられる。坪井のしだれ桜は村内の老樹でも特筆すべき大樹である。

一茶句碑

〈梅が香よ湯の香よさては三日の月〉

文政元年『七番日記』収録
小林一茶の句碑は各地に多数建立されているがこの句碑は全国で4番目に古く建立されている。
高山村は小林一茶が晩年よく訪れ、門人や知人も多くいた一茶ゆかりの里である。

〈今年米親といふ字をおがみけり〉

文政二年『八番日記』収録
小林一茶の句碑は各地に多数建立されているがこの句碑は国内でも古い頃に建立されている。
高山村は小林一茶が晩年よく訪れ、門人や知人も多くいた一茶ゆかりの里である。

水中の浄教寺欄間

初代亀原和太四郎の作品。十六人の羅漢が仏陀に仏法を伝えられる場面を絵画的手法を用いて彫刻したものである。三場面に分け、それぞれ異なった大樹をその情景の中心にすえ、表情豊かな羅漢像を刻み出している。やや粗く、細部の刻みを省略するなど写実性には欠けるが、遠望した場合、その情景場面の真迫性が現れる。細部の彫刻を極力抑えた欄間彫刻は、その構築性の中に、初代亀原和太四郎の技量の非凡さをうかがうことができる。

海福寺の聖観世音菩薩立像

平安時代後期に高井御牧関係の官人が京都よりもたらしたものと考えられる。製作優秀な高山村最古の仏像である。岩屋観音として後世崇拝された。

西光寺の地蔵菩薩半跏坐像

高山村唯一の胎内前身仏を持つ、江戸時代の作品と推定される仏像である。また、胎内前身仏は戦国時代以前の作と推定される。

堀之内御判屋(高札場及び高札)

高札場は幕府の威光と庶民の基本法を周知されるために、江戸時代初期には全国津々浦々の交通繁華な場所に建てられたが、堀之内御判屋もその頃に建てられたものと思われる。昭和10年4月14日に競売され、その後数年以内に取り壊されたようである。(堀之内区議事録)昭和59年に現在の金属板葺き屋根で再建をしたが、建物・石垣を含めてきわめて忠実に再現したものである。高山村では唯一の江戸時代の高札場の様式を後世に伝える貴重な歴史的遺物である。

紫雲山花木堂 安心相承御影

この軸は、一般に別名「高徳連座像」と呼ばれたりしている。全国的にはいくつか存在するが、長野県では最近県宝になった木曽のものとよく似ている。宮村のものは非常に保存が良く、画も美術的に優れ、京都の絵師が描いたと思われ、上高井地方に浄土真宗がどのように伝わってきたか、という歴史上貴重な資料である。この中の人物中、永圓(現長野県上水内郡信濃町明専寺の開基=鎌倉時代)が描かれているものは、今のところ全国にも宮村にしか存在しないと思われる貴重な資料である。宮村は全戸須坂市の勝善寺(浄土真宗東本願寺派)の檀家であり、戦国時代には大阪石山戦争の時に、兵糧米を送ったり、村人が兵士として大阪で戦死を遂げたりしたという伝承があり、信仰の篤いところとして現高山村では有名な村落である。勝善寺の塔頭に宮村担当の圓照寺があったが、その寺は明治に廃寺となり、住職は東京へ移住した。そのときに「安心相承御影」が質屋に流れた。東京在住の宮村出身者がそれを発見し、村民が買い戻し、今日に至っている。

稲沢石造寶筐印塔および陀羅尼墨書木柱

今から300年前(宝永5年)のものであり、寶筐印塔は長方形が一般であるが、稲沢のものは円筒形の素朴な寶筐印塔である。その中に比較的鮮明な文字で、「寶筐印塔陀羅尼経」を書写した円筒形の木柱が入れられてある。中に残された経典が健在であるのは非常にめずらしく、江戸時代の山村の信仰が知られる貴重な資料である。

福島正則荼毘所跡

福島正則は徳川幕府によって広島50万石から川中島4万5千石に減封されて高井野に流された大名であるが、この高井野での5年間の短い治世に、治水工事・用水建設・新田の開発と善政伝説の基となる政治があり、領民に慕われた。また、病死した正則の死骸は7月の暑い盛りであったため、幕府の検死が済む前に荼毘に付したために、家禄は没収された。正則の威徳を偲んで、当時の住民により、この荼毘所跡に1本の杉が植えられ、以来300数十年、いつしかその地は「一本杉」と村民に呼ばれていた。一本杉は「傷をつけると血が噴出す」と長い間村人の間に伝承され、大切にされてきた。高さ30m、周囲9mの大木となっていたが、昭和9年室戸台風で倒壊した。長野県の指定史跡となっている福島正則屋敷跡と共に、この荼毘所跡は福島正則に関する貴重な史跡である。

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